【エッセイ】時間は愛おしく背中を過ぎ去る

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最近、じぶんは、本当に文章を書きたいのだろうかという根源的なもやもやを抱えている。ここ一年ぐらいのことだろうか。

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WEBライターの端くれとして活動しはじめて早10年が経った。文章を書くということに意味を求める私は、ライターといったビジネスライティングの分野にはそもそも向いていないのかもしれない。

かといって、内面を表現するにも私には掘り下げるべきものもないような感覚にとらわれているから、このように何もないかもしれないけれど、という文章を綴ることになってしまう。

社会を対象として興味の強かった時代はもう過ぎて、そもそも10代や20代はそういった周囲の環境に巻き込まれ過ぎて自分が苦しくてしかたなかったのだが、ようやく毎日を淡々と送れるようになると、成長していないのではないか、ただ無為に日々を過ごしているだけではないかという寂寥とした思いが、生活の隅に染まっていって、私はただただ生きているのだと思う。

不惑を過ぎると、祖父母の死という疑似的体験は終えていて、親の死であったり、同級生の死であったり、日々の暮らしの中に人間の毛穴からもやの立つような獣のような死臭を感じるようになる。同時に、自分自身の体が少しずつ老齢期に向けての準備に入っていることを思う。

けれど、これはけして老化だとか若さが失われたという単純な話ではなくて、人は人生の後半に向けて身体の細胞も心や魂の柔らかな襞もバージョンが変わるものなのだといっていい。生活自体が丁寧なものへと変わっていき、いや、すべての秒ごとに感触を得るように意識を変えたいと願うようになり、目の前の時間が伸びていって1日はあっという間に短いという不思議な時間の経過を体験するようになる。

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時間というものの経過を、たった一瞬でいい、ともに共通して感じてくれるような大切な友人を愛おしく思い、見えない時間をかすかでも共有できない知人を疎ましく思って、内に閉じていき、これは若者の孤独のようなものとは質の違う、それまで抱えていたはずの孤独を私自身が両手で抱きしめていると気づくようになった。

孤独というのは、目に見えない確かなかたちのあるものではなくて、人がそれぞれ持つという時間、それを感じる心の細胞の隙間にそれぞれ染み込んでいるものだ。

私は、時間というものが、前方から吹く風のように流れてくるのではなくて、いまとなって、心に直接どっと染み込みながら押し寄せて、そして背中から過ぎ去っていくのを感じている。

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